御霊合戦専門的な見解
知っている人相当少ないと思うよ
この頃、管領職にあった勝元派の畠山政長と宗全派の畠山義就との間にあった家督継承権をめぐる闘争が激化し、さらに義政の気紛れが両派の対立に油を注いだ。1455年(康正元年)のころ畠山家総領であった義就は、勝元の策謀によって義政から追放され、従兄弟である政長が替わって畠山家総領を継承した。
その後、義就が宗全を頼って復権を願い出ていたところ、1467年2月6日(応仁元年正月2日)、宗全に懐柔された義政が、政長や勝元に断ることなく、将軍邸の花の御所(室町第)に義就を招いてこれを赦免した。義政は政長へ追い討ちをかけるように、正月恒例の管領邸への『お成り』を中止して、3日後に義就が宗全邸で開いた酒宴に出席した。そこで義政は、義就の畠山家総領を認め、政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。
政長は反発して管領を辞任、後任は山名派の斯波義廉が就任した。勝元は義政から義就追討令を出させようとするが、義政夫人の日野富子が事情を察知して宗全に情報を漏らして失敗する。
政局を有利に運んだ宗全は、自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と花の御所を囲み、義政に政長や勝元らの追放を願い出た。義政は勝元の追放を認めなかったものの、諸大名が一方に加担しないことを条件に、義就による政長への攻撃を認めた。義政から廃嫡され賊軍扱いされた政長は勝元に援軍を求めたが、勝元は後日の反撃を期してこれを断った。
1467年2月22日(応仁元年1月18日)、政長は無防備であった自邸に火を放つと、兵を率いて上御霊社(京都市上京区)に陣を敷いた。義政は畠山の私闘への関わりを禁じるが、宗全は後土御門天皇や後花園上皇らを室町亭に避難させ、義就に加勢する。勝元は義政の命を守って沈黙。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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